石上寺は群馬町三ッ寺公園に隣接する小高い丘の上にある静かなたたずまいの寺である。ここに至るまでの歴史は古く千百年を越える。その間、歴史の推移の中で幾度もの大きな変転があった。それは箕輪城主、長野氏やその後高崎城主、井伊直政氏らの祈願所として、戦国の城郭と栄枯盛衰を共にしてきたからでもある。
開基は長野氏の祖先にあたる在原業平朝臣で、石上寺の名は業平ゆかりの地、大和国石上に由来する。開山は弘法大師三世の嫡孫、常喜院真覚僧正で貞観四年(八六二年)の創建であった。当初布留山性徳院と号し、新義真言宗の学問所として講堂も建立された。
長野氏滅亡後、慶長三年(一五九八年)に城主となった井伊直政が箕輪城を廃し、高崎に築城した折り石上寺もまた城に従い高崎に移建されて高崎城の祈願所となった。
徳川家より寺領三十石の御朱印を賜わり、十六世辨翁の時、清浄光院と改め、院家寺となり門末十五ヶ寺を持つ隆盛であった。
明治維新の折り、寺領は上地となったため高崎に寺を維持することが困難になり、明治二十四年高崎石上寺をその門末寺である三ッ寺の宗慶寺に移し、二つの寺を合併して布留山石上寺とした。なお宗慶寺の開山は明徳三年(一三九二年)慶秀法印である。
昭和五年七月二十四日、落雷のため本堂、書院、庫裡を全焼、本尊と過去帳は持ちだして焼失をまぬがれた。その後、本堂は昭和二十九年八月に再建された。
現在、真言宗豊山派布留山清浄光院石上寺と称し、本尊は不動明王である。現住職の和田辨海は高崎石上寺以来の二十五世に当り檀家は三ッ寺地区、高崎菊地地区を中心に三百五十戸を有している。
(堤ヶ岡村誌・箕郷町誌参照)
上信電鉄線「高崎駅」より20分
関越自動車道「前橋IC」より15分